懸命に、なれ!!
懸命になることって、いいなって。
高校時代くらいまでだと、どうも、「ダサい」とか「めんどくさい」とか、まぁ、あるんだろう。
ただ、
いろんなコトをやってみて、
経験してみて、
うだってたトキもあって、
ものすんごいやってたときもあって。
やっぱり、懸命にやってたトキの方が、よかったのかなって、思う。
そっちの方が楽しい。
後で話のネタになる。
人と繋がれる。
効率がどうのとか、
成果がどうのとか、
そういうのもわかるのだけれど、
やっぱり、いいなって思う。
懸命に、生きるって。
そういう人と、話しをしたい。
懸命に、なる。
これからの時代-"科学"、"時代"、"自由"。
"科学"は『なんのため』に発展したのか。
『幸せ』のためか。
戦争などで『勝つ』ためか。
森羅万象の『真理』を解き明かすためか。
その全てが"答え"であるのだろうし、
また、
一つの"答え"はないのだろう。
はじめ、
古代ギリシャの人々は、『神の真理』を解き明かそうと、数学や物理を発展させ、
とまれ、
100年前の人々は、世界の国々に『勝とう』としコンピューターを開発した。
時代によって、その"答え"は変わるのだろう。
では、「現代」、は?
2003年に人間の遺伝情報である「ヒトゲノム」が明らかとなり、ES細胞やiPS細胞の進展に繋がった。2016年はVR元年とも呼ばれ、「仮想現実」の世界がいよいよ現実のものとなろうとしている。AIが人間を支配するとも、言われてもいる。
誰にも止められない、"時代"のうねり。
新しい"時代"は、常にやってくる。
たまに、うっとおしくなることがある。
たまに、不安になることがある。
たまに、恐ろしくなることがある。
どこまで、便利に、なるのだろう。
"時代"の「常識」は、常に襲いかかってくる。
気付けば、携帯電話が普及して、
気付けば、mixiが普及して、
気付けば、twitterが普及して、
気付けば、LINEが普及している。
それが出来なければ、 置いていかれてしまう。
学校で教えてもらう知識や教養なんてほんの一部。それでも、いつの間にか、周りは知っている。
これ以上、便利になる"必要"があるのか。
これ以上、科学が発展して"幸せ"になるのか。
わからない。
それでも、"幸せ"だと思って日々を送りたい。
かつて、19世紀前半、ドイツの哲学者・ヘーゲルは「歴史哲学」をまとめ、以下のように考えた。
哲学が歴史に赴く際に携えてくる唯一の思想は、単純な"理性"の思想。つまり、"理性"が世界を支配し、世界の歴史も"理性的"に進行する。
"理性"の結晶とも言える"科学"は、ヘーゲルの生きた時代の後、確かに、世界を支配しようとしているのかもしれない。今や"科学"は生活の大部分を担っている。
そして、次のようにも述べている。
歴史の究極目的は"自由"である。この究極目的を達成するための手段は"個人"である。
なるほどそうなのかもしれない。科学の発展によって、それに縛られながらも、それを取捨選択する"自由"を手に入れようとすることができようとしているのかもしれない。そしてそれは、"個人"によって、異なっている。
VRとARの発展によって、動くことなく、様々な場所に行く"自由"を手にすることができつつある。AIがより発展し、それをうまく利用できる人は、これを使って時間やお金から"自由"になることができるだろう。医学の発展により、不老不死を手に入れる"自由"を得る人もいるのだろう。
それらの、"自由"を、選ぶのは、"個人"、だ。
ヘーゲルの歴史哲学の本来の意味合いがこのようなことではない。が、そのようにも考えられるのでは、ないか。
- 世界はそもそも、"幸せ"になることを目指していない。
- "個人"が"自由"となるために、新しく時代は生まれ変わる。
では、これをもって、次の『問い』を、
また考えてしまう。
"自由"とは、"何"か。
夜空は何色。
夜空はいつでも最高密度の青色だ。
『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』 大ヒット上映中!!
こんな映画が、あるなんて。
こんな映画があるから、救われる。
孤独で、ありますように。
誰にもわかってもらえない人間で、ありますように。
なにもかもも理解できると、思えませんように。
そうしたら、
誰かを、求めていられるから。
誰かに、理解して欲しいって思えるから。
理解したいって思えるから。
そんな、気が、するから。
ひとり、ぼっち、。
私は、言い張る。
「運命」とはなにか、誰もが一度は考えてしまうことのように感じる。
今、26歳の自分は、その問いに対して、「言い張ったモノが運命だ」と思う。
生まれた家族や地域、それによる経済状況や習い事、学校などで出逢う人々、、、
産まれてからは、そういった全ての『環境』がある意味で、与えられる。
しかし、中学から高校にあがる際、高校から大学にあがる際、大学から就職をする際など、そのときどきで少なからずの『選択』をしなくてはならない。そして、その後、そのときどきでした『選択』は最善であったのか、人生の節目節目で立ち止まる。
必ずしも『自分が"した"選択』と『自分が"したかった"選択』が一致するとは、限らない。むしろ、『自分が"した"選択』とは、『"そうせざるを得なかった"選択』であることが、私には多かった。
その『選択』のときどきにおいて、絶望したし、いやでいやでたまらなかったし、泣いた。涙も出ないことも少なくなかった。
しかし、今、思う。
自分がしてきた『選択』は、『自分が"そうせざるを得なかった"選択』は、自分にとって、「正しかった」ということを。
ドイツにおける観念論の哲学者・シャーペンハウアーは、以下のような言の葉を残している。
"運命"がカードをシャッフルし、
我々が"勝負"する。
産まれもった「環境」は変えられない。そのときどきの節目で仕方のないことはいくらだってある。そうではあっても、それでも、私は"私"でありたい。私の赴くままに、"私"でありたい。
自分自身のそれまでの『過去』が、『運命』であったのだと信じていたい。そのためにも、私は、そのときどきでした『選択』を、正しかったんだと「証明」したい。
『年齢』を経るごとに、
過去に『選択』したモノが多くなった。
それらの『選択』は、
正しかったんだって、「証明」してみせる。
そしたら、素敵な『年齢』の重ね方をできるんじゃないのかなって、信じてる。
きっと、そう。
私は、そう、「言い張る」。
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