私は、言い張る。
「運命」とはなにか、誰もが一度は考えてしまうことのように感じる。
今、26歳の自分は、その問いに対して、「言い張ったモノが運命だ」と思う。
生まれた家族や地域、それによる経済状況や習い事、学校などで出逢う人々、、、
産まれてからは、そういった全ての『環境』がある意味で、与えられる。
しかし、中学から高校にあがる際、高校から大学にあがる際、大学から就職をする際など、そのときどきで少なからずの『選択』をしなくてはならない。そして、その後、そのときどきでした『選択』は最善であったのか、人生の節目節目で立ち止まる。
必ずしも『自分が"した"選択』と『自分が"したかった"選択』が一致するとは、限らない。むしろ、『自分が"した"選択』とは、『"そうせざるを得なかった"選択』であることが、私には多かった。
その『選択』のときどきにおいて、絶望したし、いやでいやでたまらなかったし、泣いた。涙も出ないことも少なくなかった。
しかし、今、思う。
自分がしてきた『選択』は、『自分が"そうせざるを得なかった"選択』は、自分にとって、「正しかった」ということを。
ドイツにおける観念論の哲学者・シャーペンハウアーは、以下のような言の葉を残している。
"運命"がカードをシャッフルし、
我々が"勝負"する。
産まれもった「環境」は変えられない。そのときどきの節目で仕方のないことはいくらだってある。そうではあっても、それでも、私は"私"でありたい。私の赴くままに、"私"でありたい。
自分自身のそれまでの『過去』が、『運命』であったのだと信じていたい。そのためにも、私は、そのときどきでした『選択』を、正しかったんだと「証明」したい。
『年齢』を経るごとに、
過去に『選択』したモノが多くなった。
それらの『選択』は、
正しかったんだって、「証明」してみせる。
そしたら、素敵な『年齢』の重ね方をできるんじゃないのかなって、信じてる。
きっと、そう。
私は、そう、「言い張る」。
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