応援団長の少女
応援団長の少女だった。
といっても、今から10年以上も前になるのか。当時、小学生の時分にとっては、かっこいいお姉さんだった。とてもとても、かっこいい、お姉さんだった。
甲子園に向けた地方予選。野球が好きでまだ野球の夢を見ていたあの頃、父親に連れられて高校野球の観戦に来た。
なんとなく、こっちの方が空いてそう、などという理由で、とある高校の応援席に座った。
お姉さんが、高校生男子が着用する学ランを着て、応援をしていた。それも応援団長。ちゃんと男子もいるにもかかわらず。それでも、そのお姉さんが応援団長であった。
メガネをかけて、腕を組んで、凛々しい表情で、険しい顔で。
まだ、看護「師」ではなく、看護「婦」と呼ばれていた時代。暑い夏の日差しの下で、女の人が学ランを着て応援をしていることに、しかも男の人を差し置いて応援団長をしていることに、驚いたことを、憶えている。
点が入ったりファインプレーがあったトキ、チャンスで回が終わってしまったトキ、周りの応援部員や野球部員は、もちろんのこと、一喜しては一憂する。ただ、応援団長のお姉さんは違った。
どんなに良いプレーがあろうと、どんなに悪いプレーがあろうと、険しい顔は、そのまま。文字通り、眉一つ動かさず、組んだ腕も微動だにしない。
もちろん、攻撃側になれば全力で応援。声を張り上げ、腕を大きく振り、周りの部員やブラスバンドに指示を送り、一糸乱れぬ集団を作り上げ、スタンドが一体となり、一つの息をした。
お姉さんの鬨の声が、プレーをする選手たちに意志を伝え、味方を鼓舞し、相手を威圧した。
野球のプレーをするだけが、高校野球でないコト。応援をする人たちが、確かにいるんだというコト。必死に、全力に、懸命に、生きる人が確かにいるんだってコト。いろんなコトを示していた。
勝負が終わった。
僕たちの座った、お姉さんが応援する高校が勝利した。
いつも試合終了で帰るのだけれど、その日だけは違った。見たかった。応援団長がどのように撤収していくのかを。
そしてそこで、はじめて知った。試合が終わると、相手を讃えるため、応援団長を中心に相手に向かって、互いに応援をし合うのだということを。
周りがどれだけ浮かれようと、試合が終わってベンチがザワザワしようと、応援団長のお姉さんだけは違った。試合中と変わらない。険しい顔をし、腕を組む。そして、大きな声で腕をいっぱいに振り、応援をする。最後まで。
その姿が、どれほど、かっこよかったか。
後日、勝ち進む先で、その高校の試合がテレビ中継となった。
試合は負けてしまった。
それでも、中継は行われていた。
試合後の相手との応援合戦。
応援団長のお姉さんの顔がアップにされていた。
凛々しい表情、険しい顔、腕を組む姿。
それは、あの日に見た光景と同じ。
ただ、たった一つ、違っていた。
涙が、溢れていた。
それでも、顔を拭うことなく、メガネを外すこともなく、険しい顔のまま、涙が溢れていた。
相手チームに向かっての応援。
涙に溢れながらの応援。
美しかった。
今となっては、あの応援団長の少女がどの高校のチームだったのかすら忘れてしまっている。その後、あのときのお姉さんが高校を卒業して、どうなっているのかなど、知る由もない。
それでも、はっきり憶えている。
あの、応援団長の少女が、そこに確かにいたことを。
あの、全ての力を振り絞っての応援を。
夏の野球の季節、
苦しいトキ、
あの少女を思い出す。